医大生 の blog

医学部のこと。読んだ本について書きます。

ゆるふわ女医になりたい友達のはなし

わたしメジャー科に行くつもりはないから、前期の実習にはそこまで興味がないんだよね

 

一月から始まる実習の話をしていたときに彼女は言った。メジャー科とは消化器、循環器、呼吸器などメインの臓器を扱う診療科のことである。忙しくてQOLが低く近年人気がない。

 

どの科に行きたいのと聞くと、皮膚科か眼科か耳鼻科、と答える。いわゆるマイナー科だ。可愛くて男の子に人気がある友人で、マイナー科志望はイメージにぴったり合う。

 

彼女は週5で働きたくはない、週3くらいがちょうどいいなと続ける。わたしは笑ってイメージにぴったり合うと答えた。別に馬鹿にしているわけではなく、あなたらしい合理的な考え方だね、という意味だ。みんなからそう言われる、と彼女も笑う。

 

彼女は大きな試験の前にバイトのお給料(田舎の)をずっと調べていたらしい。こんなに勉強したらついてくる旨味ってなんぼのもんなん、と思ったのだろう。岐阜あたりに行くと一日十万円もらえるなどと言っていた。まだ病院実習すら始まっていないのに求人サイトを見ているなんて彼女くらいなものだ。

 

彼女はいわゆる、ゆるふわ女医のタマゴなのだろう。ゆるふわ女医とかくと字面からなんとなく、揶揄が含まれることに気づく。医者の世界では、女医が多くなるとQOLが高いマイナー科(皮膚科、眼科、耳鼻科など)に人が集まり、メジャー科(循環器、呼吸器、消化器)や男性医師に負担がかかるから女医は多すぎないほうがいいと言われている。

 

有名になった医学部入試不正事件を思い出して欲しい。入試で男子に下駄を履かせているなんて男女差別もいいところ言語道断と大問題になっていた。こんなことがまかり通っていたのかと思われるかもしれないが、正直この業界の人は「薄々知ってた」という人も多くいるだろう。

 

この問題を議論すると本が一冊書けるくらい長くなりそうなので、実際、一冊考えている本を紹介しておく。面白かったので興味がある人は読んでみてほしい。

 

 


ゆるふわ女医が医療界にしわ寄せをもたらすと聞いてイメージするのは、何も考えていない「きらきら女医」のせいで医療に負担がかかるといったところか。しかし別にゆるふわを選択をする医者が悪いわけではない。人生のメリットデメリットを比較検討した上で「正解」の選択肢を選んでいるのだと思う。

 

それこそ冒頭で話した彼女のように医学生の頃から「どのルートに入るのが一番コスパがいいのか」を真面目に検討している。初期研修を終えマイナー科を志望し、結婚出産後、週に3日くらい働くというところまで見据えている。

 

彼女たちが重視するのは「プライベートの時間があり、しんどくない」ことだ。そういう人が増えたらほかの科が手薄になるだろう。実際いま眼科耳鼻科皮膚科の人気が凄まじく、都会ではもういらんというところまできているらしい。医者のくせにプライベート重視なんて許されるのかと思う人もいるかもしれない。そんなこと言われたって知らんがな。そうなったら釣り合うところまで収入で差をつけてインセンティブを調整する必要があるのではないか。

 

医療の将来を考えた上で自分の生き方を鑑みろ!と言われてもこっちだって人生一回しかないんだし、お得なルートがあるならお得なルートに行きたいに決まっている。

 

そこの期待値を調整するのが上の仕事だと思うのだが、民間と違って需要と供給に合わせて入ってくるお金が自然に分配されたりしない。例えばブラック企業とホワイト企業があってどちらも時給が一緒だったらみんなホワイト企業に行き、ブラック企業では人が足りなくなる。そうすると、時給を上げたり労働環境を改善したりして人を集めるしかなくなる。

 

医者の場合、給料の根っこが税金から来ているので、民間ほど素早く給料を上げたり下げたりできないのが難しい。

 

ゆるふわ女医は自分の人生をしっかり検討した上でコスパの良い道を選択している。ふわふわ笑っているけれど、合理的で賢い彼女は目の前の道でどれを選ぶべきなのか医学生のうちから比較検討している。

 

彼女のようなゆるふわ女医の卵を、すごいなと思いこそしても、馬鹿だと思うことなんて絶対にない。

高学歴医学部生なのに塾講師バイトで賢いガキにボロクソ言われてつらかった話

集団塾のバイトを始めた理由


就職するまでに人前で喋る仕事をしたかった
子どもが好きだった(今は特に好きではない、ガキはガキ)
家庭教師の仕事が退屈すぎて耐えられなかった。わたしの悲しい気質として楽しくないことに一ミリでも時間を使いたくなくて耐えられなくなるというのがある。自分が納得できる仕事内容だと思ったら時間かけてコミットすることになっても気にならない。

メリット


他のバイトよりも給料はいいところ。楽しさがしんどさを超える瞬間あること。うまく説明できて子どもとのレスポンスがうまくいったときはめちゃくちゃ気持ちいい。
人前で喋るときあまり緊張しなくなったように思う。いやでも人前に立つ回数を増やすと場慣れする。

 

デメリット


時給は高いものの、予習に時間を取られるので実質の時給は明らかに千円をきってる。時給のことを考えると悲しい気持ちになるのであまり考えないようにしている。責任の重い仕事なので、楽したい人はあんまり選ばないほうがいい気がする。

 

辛かったこと

 

こんなことを書くと嫌味だと思われるかもしれないが、私はこれまでずっと勉強ができる人という立ち位置だった。算数の塾講師なんて正直ちょちょいのちょいだと思っていた。サクッと予習して賢い子供と楽しく勉強できると思っていた。これが大間違いだったのだ。
教壇の前に立つとびっくりするほどうまく教えられていない自分に気づく。正確に言うと気づけるようになっただけでも少し進歩している。ほんとの初めは自分が上手く教えられていないことに全く気づかない。自分が問題を解けるからと言って、教壇でうまく教えられるとは限らない。
今思うと当たり前のことだけど、「自分は賢い」という謎のおごりでうまくいかない目の前の現実が受け入れられなかった。いい高校、いい大学、に入った人のあるあるかもしれない。自分が仕事ができないという事実が受け入れ難いのだ。高校時代の友人はなんでもよくできる子なのだが、飲食バイトをしてみて気が利かずうまく動けない自分が悲しかったと言っていた。

現在わたしは授業を二つ持っている。一つはわたしがひとりで教える授業。もう一つの授業はサブとして授業に入って上に先生がつくという仕組みになっている。その上司がすごく冷静な人で、フィードバックを正直にしてくれる。忖度一切なしで、ズバズバ斬ってくださる。

ある日、わたしの授業がびっくりするくらいうまくいかなかった。生徒に主導権を握られ、自分の言いたいことが言えなかった。賢い子にはテンポが悪いと呆れられ、わからない子はわからないまま放置されるというボロボロの内容だった。
塾の方針としてわかっている子にはどんどん喋ってもらい、子どもからのレスポンスをもらいながら授業を進めるという方向だ。わたしはそういう授業をしたかった。しかしわたしは気づいていなかった。このコールアンドレスポンス方式は全て悪い方向に転がった時に、地獄の授業崩壊が起こる。

わかる子を退屈させわからない子をわからないままにさせてしまった。
授業後上司は、それだと授業をする意味がないからいてもいなくてもいいよね、とぐっさり刺してくる。その日は丁寧なフィードバックを大量にもらったものの、ショックすぎて整理しきれないまま家に帰った。2020年落ち込んだ大賞があれば間違いなくあの日が受賞する。

 

いい本に出会う


あまりに落ち込んで「塾講師に向いていないんだ、わたしはそこまで賢くなかった」と絶望した。
本でも読んで気持ちを変えようと思い立ち、そのときに出会った「マインドセット「やればできる!」の研究」という本がすごく役に立っている。

 ザ自己啓発本というくさいタイトルの本で一見好みではないかなと思っていたがすごく良い本だった。
この本は「能力は生まれつき決まったもので努力しても伸びない」と思っている人と比べて、「努力次第で伸ばすことができる」と思っている人の方が能力の伸び幅が大きいということについて書いた本だ。

わたしはもともと遺伝に興味を持って遺伝について書いた本をたくさん読んでいた。それらの本には、知能指数は50%〜70%くらいは生まれつき決まっているとあった。
塾講師をしていても、飲み込みがいい子と悪い子がいるのはいやでもわかる。でも、自分は頭が悪いからできなくてもしょうがないと思いながら勉強するのは悲しすぎる。昨日より今日ちょっとでも賢くなるにはどうしたらいいのかと考えた方が絶対に楽しい。

教師としても同じことが言えるだろう。「教えるのに向いていない」と思いながら授業するよりも「今はできなくても努力次第でうまく教えられるようになるし、次回もっとよくなるためにはどうしたらいいだろう」と考えながらした方が楽しい。できなかったことができるようになるのは何歳になっても楽しい。せっかく真剣に取り組むなら、楽しく成長できる方がいいだろう。

 

傷つきやすい人にはしんどい仕事


わたしは上のクラス(偏差値の高いクラス)で復習のカリキュラムを教えている。一番上のクラスの子どもはめちゃくちゃ生意気で辛辣である。最近は少なくなったが初めの頃は「もうそこわかってるからいいって」「まだやるん」などの言葉をかけられた。下手な自分が悪いことは百も承知なので余計に悲しい。心にグサグサ突き刺さった。普通に生きてたらこんなに傷つくこと言われることないだろうな、と思いながら毎週傷ついて帰っていた。

他の非常勤の先生にその話をすると、落ち込んだ経験はあまりないと言われた。新しく教え始めた先生というのは一様に教えるのが下手なので、子どもたちから非難の声が上がったり、黒板から前を向くと誰も聞いていなかったりするのは絶対に経験するはずだ。他の新米の先生を見ていてもわたしと同じようにテンポが遅かったりすることが多い。

それに対して傷つくかどうかというのは本人の気質によるところが大きいようだ。ある先生には「わからないあいつらが悪い」としか思わないと言われ、あまりのメンタルの強さにちょっと笑ってしまった。


うまくなるためにやってたこと

傷つくのも嫌だし、生徒にとって意味のない授業をするのも嫌だったので早くうまくなろうと努力した。

  • 予習が終わったら模擬授業を行う。

一通りどういう風に伝えるかを決めたら、iPadとアップルペンシルで黒板に向かっている想定をしながら、誰もいない部屋で喋り続けた。早口になってしまわないようにするいい訓練ができたと思う。上司から早口にならないように、と何度も注意されたのでどうしても直したかった。今は言われなくなったので多少は改善されたのだと思う。

 

  • アドバイスや反省点をメモする。

受けたアドバイスを全てメモして、次につなげられるようにした。メモしたからと言って改善されることはないけれど、今も見直してああここまだ治ってないから次回は注意しよう、などど意識することができる。

 

うまくいかないときは思い切ってやり方を変えてみる。

わたしの塾では対話型の授業が望ましいとされているので、生徒と会話しながら授業をするようにしていた。「この問題はまずどこに注目?」→「差に注目!」という風に。うまくいくとわかっている子の話からわかっていない子にエッセンスを伝えられる素晴らしい仕組みだ。
しかしこれを慣れていない人がすると、大事故が起こる。会話を挟むと処理する情報が増える。生徒から想定外の質問が出た時にうまく捌けないので授業が止まったりする。わたしは対話型の授業に憧れていたが、いったんトップダウン形式に戻すことにした。わたしから生徒に一方的に伝える形式の授業にするとすごくやりやすくなった。

その際、以下の点に気をつけるようにした。
・早口にならない
・前を向いて授業をする
・綺麗な板書
この三つくらいに絞られるのだ。
これができるようになったので、対話型の授業に戻し始めている。教壇に立ちはじめてから半年くらいたってやっとまともに授業ができるようになったと感じられる。長かった。しんどかった。キツかった。


医学部との両立


キャパオーバーかもしれないと思うことは何度かあった。CBT(医学部共通の大きなテスト)の前は週に二コマもいれた自分を本気で憎んだ。1ヶ月間、朝から夜まで勉強して寝る前の1、2時間はバイトの予習をするという生活を続けると、気が狂いそうになる。

 

就職してしまったらこの仕事ができなくなるのかと思うと寂しい。わたしは集団塾のバイトを始めて良かったと思っているし、これからも両立が可能な限り続けていくつもりだ。

 

 

塾講師バイトで「先生なのにそんなんじゃだめじゃん」と言われた

塾講師バイトでクラスを受けもってから3ヶ月。生徒にそんなんじゃだめじゃんと言われる。

先日バイトでわたしが間違ったことを言ってしまい、生徒がそれを指摘したことがあった。ゆっくり聞いて生徒が何を言っているのか理解すれば良かった。なのにわたしは焦りに焦って何を言われているのか全くわからなくなってしまった。世紀のあせりんぼとして有名なわたしも流石にびっくり。その間5分。生き地獄である。その生徒が「先生なのにそんなんじゃだめじゃん…」とぼそっと呟いていたのが忘れられない。だよねぇ、わたしも思うよ。その日はめちゃくちゃ落ちこんだ。家帰って布団かぶってワンワン泣きたいくらいだった。

授業後のフィードバックで塾の上司に生徒の前では「賢い先生」でいるべきだと言われた。詰まる原因は予習が不十分なのでは、と言われる。その通りなのだが自分的には予習に時間を割いているつもりだったので悲しい気持ちになる。しかもこれが1回目ではない。上司は重ねて、人は信頼できると思った人の話しか聞かないよと。確かにそうだと思った。しかし今までずっと信頼できそうな人間をやったことがないので、信頼できそうってどんな人なのか根本からわからない。

信頼できなそうな危なっかしそうな雰囲気はずっとわたしを助けてくれていた。課題が終わってないだとか実験でやらかしたとか、試験勉強がほんとに間に合わないとか困ったことが起きると、困った雰囲気を出しておく。すると優しい友人が助けてくれたりする。そしてそういうやつにはめんどくさそうな仕事はあまり回ってこないのである。

周りに甘えるためにはやらかしそうな雰囲気を纏うのは不可欠の術だ。しかしこれは学生までの話だ。バイトであれど、社会人として外に出ると危なっかしそうなやつ、すなわち信頼できなさそうなやつという評価を下されるのだと初めて気づいた。危なっかしそうな雰囲気をまとうデメリットが大きすぎる。ちょっとミスったとしても、どっしり構えて自信があるふうを装った方がメリットがでかそうなのだ。どんなに無能でも有能のふりをする。愛嬌と要領じゃなんとかならないことがあるなんて知らなかった。

確かに生徒からしてみると、教える内容が分からなくなる先生なんて必要ない。えーっとあれーなどと言われるとこいつ大丈夫か、こいつのいうこと信頼できねえなとなるに決まっている。だからこれからは予習を重ねて生徒からの信頼を失わないようにすべきだというのはわかった。しかし、一瞬わからなくなることや生徒からの予想外の質問に何を言っているのかわからなくなることはこれからもあるだろう。そんなときに信頼できる先生の仮面をつけていられるのだろうか?

先生と呼ばれる職業は、教師、医者、弁護士などがある。これらの職業に共通する点は供給側と受け手に知識格差が存在することだろう。知識のなさそうな先生などお呼びじゃないのだ。密度の濃い予習をして、算数の知識ストックを増やしていけばこういうことは減るだろうけど、こんな人の教えることが信頼できるかということだ。

社会人として「やばい、どうしよう、助けて」では生きていけない、ということを教訓にできるいい機会だったと思うことにする。

意識高い系医学部生と出会った

はじめて出会った。意識高い系の医学生に。あまり身近にいなかったから関わったことがなかっただけで、存在は知っていた。 後輩男子に学生団体のイベントで使うから「生きる意味」をA4一枚に手書きで書いて送ってくれと言われた。あなたの生きる意味、コロナ禍において考えたこと、コロナ後に頑張りたいこと、の三つをA4に手書きで(強調したい)書くという趣旨らしい。

生きる意味ってなんやねんと思いつつ、見てみると例と書いてあるその子の「生きる意味」がA4一枚で語られている。少し脚色して書くが、生きる意味のところに新しい救い方ができる救急医になりたいと書いてあった。この時点で共感性羞恥がすごい。だがまだまだ恥ずかしさは続く。コロナ禍で考えたことの欄には、「医療、救急への注目が大きくなっている中、救えなかった命が数多く出てしまったことへのもどかしさ、将来、新しい救い方を創出できる救急医として、医療、救急を引っ張っていくという自覚と決意」などと書かれている。目が滑るほど、かっこいいけどありきたりというか当たり前、一周回って何も新しいことを言っていない文章が並ぶ。もうはずうてはずうてこの文章を書きながら目をそらしています。

コロナ後の毎日で頑張りたいことのところでは 「夢に向かって努力と思考をし続ける 常に最新の情報をアップデートする 学生の間から医療的価値を出す」 などと書かれており、もう…いっそ殺してくれ……というくらいの恥ずかしさに襲われる。

極め付け最後には 「この企画で集まった若者千人の生きる意味をテキストマイニングで処理し、若者の声として発表します」とある。テキストマイニングいいいい言いたいだけやろおおおお。じゃあはじめっからテキストデータで送ってもらえよおおおおお。マイニングせずに済むよおおおおお。 意味もなく難しいことやってます感出すのはやめてくれ…。すみません。もう精神が持ちません。まだ続く。

あなたの生きる意味に、著名人から応援メッセージが届くかも!とある。生きる意味を応援されんの底辺っぽくてなんかうけるなとちょっと笑えた。 著名人に応援されなくても立派に息してるのでわたしは遠慮させてもろても。

世間に意識高い系の学生が存在するのは知っている。医学部には意識高い系がほとんどいないのだ。一般的な意識高い系といえば、海外とか人脈とかがイメージされる。それが就職につながったりするのかもしれない。しかし、医学部性は意識を高くもって人脈を作りTwitterのフォロワーを増やしても、行き着く先は一兵卒の雇われ勤務医だ。地味である。将来的に辿る道はほぼ同じなので、必要以上に自分を大きく見せる必要があまりない。経済学部の人たちが〇〇社の有名な〇〇さんと会った、というとおーすっげえとなるかもしれない。しかし医学部には共通認識としての「おーすっげえ」となるトピックがないのだ。

医学部の日常は思っているよりも暇で地味だ。そこに学生団体の活動などがあると自分がメインストリートで動いているかのような気持ちになれて少なくとも何かしてるという安心感があるのだろう。 しかしわたしにはどうしてもごっこ遊びに見えてしまう。

何か言っているようで中身のない言葉。救急についていろいろ調べているはずなのに、あまりにもメタ認知ができていないところ。字面はかっこいいがとにかく具体性がないところ。偏見かもしれないが意識の高い人たちに共通してそうな恥ずかしさだ。

先ほどから恥ずかしい恥ずかしいとは言っているが、こんなにも恥ずかしく感じるのはおそらく自分の中にも同じベクトルの恥ずかしさがあるからだろう。黒歴史が服着て目の前にいるのだ。恥ずかしくないわけがない。

晒したくはないけれど、わたしの恥ずかしさを晒しておく。 わたしはその時々にエバーノートにメモを残しているので、恥ずかしい言葉にいつでもアクセスできる。えっへん。

一年半前のメモにこんなのがある。

私の中の磨けば光る得意なこと - プレゼンテーション - 人の心を掴むこと - 本を読むこと

これは恥ずい。ツッコミどころが1秒で500くらいは思い浮かぶ。中身のなさ。カッコよさげな字面。具体性のなさ。意識の高さを兼ね備えている。

他にも、プログラミングの勉強をしていた時期に

それぞれが何かを紹介し合うアプリ 紹介されたい人と紹介したい人をマッチングするアプリ

などといろいろ書いてある。ちなみにアプリを作ったことも、作り始めたことさえない。ホリエモンがようゆうてるけど、「アイデア自体に価値はない」のだ。こういうふわっとしたことを考えて言葉にだけして何かしたような気になっていたのだ。恥ずかしい。

若者なら多くが通る道かもしれない。みんなちょっとくらいは意識の高い言動をした記憶があると思う。その恥ずかしさが目の前にいて、恥ずかしいことをしろと頼んでくる。もう生きる意味をA4のルーズリーフに書ける時期は終わったのだ。

自分が何者にもなれないかもしれないという不安がそうさせていたのだと今なら思える。そのときはそのときでいっぱいいっぱいなのだ。(地味そうに見える)普通の医者になんかなるもんか。医者以外の専門性を身につけてやる。だとかいろいろ考えてしまうのだ。

今ちょうどその中にいる後輩くんは楽しんだらいいと思う。意識の高い自分は案外かっこよくて楽しい。 でもいつか、自分を大きく見せなくても死んだりしないと気づく日がくるんだな。

なぜ人類のIQは上がり続けているのか?

人類のIQが1900年ごろから上がり続けていたという事実があります。先進国ではその上昇は1990年代にほとんどの国で止まりました。900年代はじめの米国の平均的な人たちは現代人と比べるとIQ73程度でした。これを示したのはジェームズ・フリン氏であり、IQの世代ごとの上昇は彼の名前をとってフリン効果と呼ばれています。

IQとは平均的な人を100で表した相対的な数値です。相対的な数値であるにもかかわらず、世代ごとに比較するにはどのようなやり方をしているのかについては、本書をご覧ください。

話を戻してIQ73というのはかなり低い数値です。
「IQ70~85は境界領域知能とされ、明らかな知的障害とはいえず、環境を選べば、自立して社会生活ができると考えられる」とされています。
http://www.hattatsu.or.jp/hattatsu_shogai_toha.htm


フリンはフリン効果を「祖先よりも多様な認知的課題を負わされる時代にわたしたちは生きており、そうしたもろもろの問題に対処できるように、新たな認知能力や脳の領域を発達させてきた」と考えています。要は私たちの脳が「より現代的」である、としています。


フリンはこのIQの上昇を完全に環境要因に見ています。
IQは遺伝率が80%程度あると算出されているが、これはIQが世代ごとに環境要因によって上昇することと矛盾はないとしています。

白人と黒人の間にIQの差があるという事実があります。
日本では人種間での能力の差について話すことはあまり良くないとは思われていますが、アメリカほどではありません。米国ではこういう話はタブー視されているので、「The Bell curve」という正規分布の本にこの話が載ったときには大論争が起こりました。

ジェームズフリンも黒人の IQ は世代間上昇により白人との差は縮まるだろうと予想する、今現在の差が完全に環境によるものではないということを認めています。

ミネソタ大学の心理学者のスカーとワインバーグは1976年に黒人などマイノリティの子供を養子にした白人家庭の大規模な調査を行いました。
黒人の子供を養子にした白人夫婦の実の子供の平均 IQ は116.7で10それに対して生後1年以内に養子にあった黒人の子供の平均 IQ は111.1でした。白人の平均的な IQ が100で黒人が85であることを考えるとこの数字は驚くべきものです。

しかし現代の行動遺伝学はこの研究に一定の留保をつけます。今では遺伝の影響は年齢によって変わることが分かっているのです。
具体的に言うと知能における遺伝の影響は年を追うごとに大きくなります。幼少期の頃は家庭環境の影響が大きくても、青年期になるにつれ元々の遺伝の影響が大きくなります。

裕福な白人家庭の養子になった黒人の子供の IQ を大きく向上することを示したスカートワインバーグは、自らの仮説を検証するために10年後の1985年に同じ子供たちを再調査しています。 それによると生後1年以内に養子にあった黒人の子供の IQ は思春期になっても99.2で黒人が平均と比べてはるかに高かったです。 しかし10年前と比べると11.6ポイントも下がっていることがわかりました。養子を迎えた白人夫婦の実子の IQ は109.4で10年前から7ポイント下がっただけでした。さらには黒人とされた子供達は中には黒人の母親と白人の父親の子供が含まれており10年後の彼らの IQ が98.5なのに対して黒人同士の両親の子供の IQ は89.4と明らかに低いことも示されています。

(「もっと言ってはいけない」 橘玲 より)

『なぜ人類のIQは上がり続けているのか? 人種、性別、老化と知能指数』 ジェームズ・R・フリン
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『もっと言ってはいけない』 橘玲
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誰もマクロ経済学者にこれからの経済を教えてと聞きにいかない

市場は複雑すぎて因果論ではなく確率的にしか記述できないからです。

マクロ経済学のすべてのモデルは世界金融危機を予見できなかったし、リーマンショック後の株価大暴落はそれまでの確率論を完膚なきまでに叩きのめしました。


市場は複雑系であり、ミクロな出来事が集まってマクロな組織ができると「ミクローマクロ問題」が生じます。

私たちの体は、原子が集まって分子となり、分子が集まってアミノ酸を形成し、それらから生きた細胞が構成され生命として存在しています。
しかし、原子や分子の運動をいくら考えても我々のような知的生命体がどのようにして出来上がっているか誰も説明できないのです。

社会や経済学も「ミクローマクロ問題」を抱えています。

 

例えば市場経済よりずっと単純な株式市場を考えてみましょう。
株式市場はある価格に対して「売り」「買い」(何もしない)の選択肢しかない極めて単純なゲームなのに、株式市場をモデル化して将来の株価を正確に予測できた人はいません。もしそんな人がいたとしたらこの世の富全てをその人が独占することができるので、そんな人がいないことは自明です。

市場経済は株式市場よりずっと複雑で、人々の思惑と国家が介入しています。社会全体となると複雑さの度合いはさらに高くなります。いくらモデルに当てはめようとしても、説明できないのです。

しかし現代に生きる私たちはこれに対する強力な武器がなんであるか知っています。
統計学です。

必要なのは統計学なのです。
テクノロジーの進歩によって大量のデータを収集し解析できるようになりました。これがいわゆるビッグデータです。統計学の最大の特徴は、理論がなくても正しい答えを導けることです。

わたしたちは今、理論は分からなくてもABテストをして効果が高い方を採用すればいいのだと知っています。とりあえず正解を知って理論は後で考えればいいのです。

データを収集して答えが出たら、理論はわからなくてもそれに従うことがどれほど大切なのかを教えてくれる人がいます。

 

18世紀当時、ひどいときには産褥熱により5人にひとりの妊婦が命を落としていました。この状況を打破したのは、ウィーン大学総合病院に勤めていたハンガリー出身の医師、イグナーツ・ゼンメルワイスです。なんとか産褥熱を減らしたいと思った彼は、データを詳細に調べたのです。すると、教授や学生たちが出産を行う第一産科の方が、助産婦がとりあげる第二産科より数倍産褥熱の発生率が高かったことがわかったのです。そんなある日、ゼンメルワイスの同僚が、産褥熱で亡くなった妊婦の解剖中に誤ってメスで手を切ってしまったことにより亡くなってしまったのです。ゼンメルワイスはもしかすると、妊婦の解剖をおこなった手でお産をしているために妊婦が産褥熱で亡くなってしまうのではないかと考えました。彼は解剖を終えたものに手を洗わせることを徹底すると、12%であった第一産科の死亡率が3%にまで低下しました。さらに下着や医療器具の消毒まで徹底すると0.5%以下まで低下しました。これは医学史上ほとんど初めて、統計学をもって病気に打ち勝った瞬間だった。

しかし残念なことに、医師が産褥熱を広めて患者を殺していたという事実が受け入れられない医師によりゼンメルワイスは大学病院を追い出されます。失意のうちに精神疾患を発して、47歳の若さで死亡しました。

ファクトを前に誠実でいることは意外と難しいことです。

 

 

「合理的経済人」の仮定の上に精緻な理論を組み上げてきた近代経済学は死に、行動ゲーム理論と統計学によって置き換えられる。

従来のミクロ経済学は合理的経済人を仮定していたため現実に則さないことを指摘した、エイモストヴェルスキーとダニエルカーネマンにより行動経済学が生み出されました。行動経済学は数学的にみると非合理的だが、進化的には合理的な行動をする人間としてモデルを作りました。
行動ゲーム理論では「限定合理的」な現実的な人間をプレイヤーとしてゲームを繰り返します。これが新しいミクロ経済学です。社会は進化論的に合理的な人々や企業が織りなすゲームの集合体として捉えなおされたのです。

しかし、市場や社会の複雑性により個々のゲームから全体を理解することはできません。そこで登場したのが経済学とビッグデータです。理論は分からないけど正解はわかる。これが新しいマクロ経済学です。


新型コロナウイルスとの戦いは、まさに統計学とビックデータを持って行われています。頼りにされる専門家は統計学を扱う分野の人ばかりです。
我々は統計学とビックデータから得られる結論に対して誠実でいなければなりません。複雑系において理論を構築しようとするマクロ経済学者はもはや必要ないのです。

看取りのエビデンス

先日祖父が癌で亡くなった。その際に終末期のケアについて調べたので共有したい。

すごく悲しいのは悲しいんだけど、思っていたより死は劇的なものではなかった。生と死とのグラデーションの間でゆっくり死の色が濃くなっていくような印象だった。

 

正確な予後の測定


およそどのくらい生きられるのか?という質問に対して3週間以上のオーダーで正確に答えるのは難しい。予後の測定方法と言っても死が近いにしろどのくらいの近さにいるのかを測る方法だ。

PPIとは

f:id:nodanodayu:20200429144205j:image

表2 PPIの評価方法(がん治療レクチャー.2011;2(3):589-593.より抜粋、一部改変)
左側の項目(起居)から順に、患者に最も当てはまるレベルを決定する。

PPSスコア(画像真ん中)、経口摂取量、浮腫、安静時呼吸困難、せん妄より予後3週間未満であるかどうかを判定する指標である。

採血などを行わずに比較的正確な予後をはかることができるので、簡便に用いることができる。

点滴(輸液)の真実

10年前までは食べられなくなったら点滴をするというのは、通常の終末期医療の一部だった。
しかしこの10年で時代は変わり「輸液は苦痛を緩和するわけではない」という知見が知られるようになった。

そして最近ランダム化比較試験というエビデンスレベルの非常に高いしっかりしたデザインの研究が行われ、「死亡直前期の輸液はQOLと生命予後に効果がない」という結果が出た。
(この実験では著名な脱水が認められる人は除かれていることに注意)

つまり、死亡直後で食べられなくなった人に点滴をしても寿命も延長しないし苦痛の緩和にもならない、ということである。
しかし家族から見ると何も食べていない患者に点滴もしてあげないのは虐待をしているような気分になってしまう。

事実、口から食べられない患者に輸液をしないことは家族の苦痛につながるという研究もある。

点滴をしないという決断をするにしても後悔のないようにしてほしいと思う。
わたしの叔母は食べられていないことをずっと気にしていて辛そうだった。


オピオイド(医療系麻薬)は麻薬で中毒性が強いから使わない方が良いのか?

 

 

オピオイドは、医師が正しく管理し処方すれば安全な薬剤だ。モルヒネや麻薬と聞くとどうしても抵抗感があるかもしれないが、処方の仕方を誤らなければ痛みを抑える強い味方だということをわかってもらいたい。

 


薬を使ったからせん妄が出たのか?

 

がん患者の70%で終末期のせん妄が出る。せん妄とは意識が混濁し、奇妙な思考や幻覚や錯覚が見られる様な状態である。

患者さんの家族としてはせん妄は
1.痛みのせいでなった
2.薬のせいでなった
という誤解をしてしまう。
しかし本当はせん妄は意識の障害であり、肝不全や腎不全などの臓器障害でおこるということを知ってもらいたい。

特に痛みのせいだと考えると家族は辛くなってしまう、という研究結果がある。

わたしも祖父が見えていないものを見ていたり、最期の方になってわたしのことが分からなくなったりしたとき、すごく辛い思いをした。


そもそも終末期の意識の混濁は、病気なのかという議論もある。死にゆく過程の一部としてせん妄があるとも考えられるとして、終末期せん妄をpart of natural dying process と呼ぶ場合もある。

 

 

おすすめ本

 

エビデンスからわかる 患者と家族に届く緩和ケア

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終末期のケアはどうしても非科学的な情報に手を出しがちです。

この本は専門書ですが、緩和ケアを理解したいという人は平易そうな専門書を読んでみることをお勧めします。

 

死亡直前と看取りのエビデンス

https://amzn.to/35msETq

こちらは「エビデンスからわかる・・・」より少し専門的な内容になります。